〈責任〉の生成 20210211

予測誤差がしきい値を超えると、予測自体をアップデートする(知覚)か、予測どおりになるように世界を支配する(行動)しかなくなる 

 

プラトン的な 使う abuse 能動と受動の考え

クレースタイ  的な使う use 中動態的な考え  支配するのではなく、自分とその対象が一緒に何かをなす 浪費(⇔消費) 

 

依存症の方の多くは、安心して身をゆだねられるような信頼できる 他者に恵まれなかったからこそ、人並み以上といっていいほど自己統治を守ろうとし て生き延びておられ、そのせいで依存症の度合いが深くなっていく場合がある

 

 

意思によって過去を切断するのではなく、過去を振り返って神の助けを借りながら傷つけた人に埋め合わせをし、その上で進まないと前には進めないのではないか。

過去の遮断の解除が責任の前提条件になる

詫びる気持ちが、自分を場所として、過去の振り返りを通じて過去との連続性の中で出てきたときに、責任ということが初めて言える

 

過去を「前にして」、それに応答しようとするとき、初めて責任の気持ちが生まれてくる

 

感謝、思いやり、を持ってやり取りをする

子を育ててくれていることに感謝する

傷つけたことに対して詫びる

 

 

 

<責任>の生成 20210204

「予測誤差」…自分が想像している「ああなりたい」「ああなるだろうな」という期待や予測に対して、異なる事象が起こること。

 

予測誤差が大きすぎて、過去の経験と類似の事象としてパターン化できない場合、その記憶は「トラウマ記憶」となる。トラウマ記憶が思い出されることは本人にとって苦痛となる。

 

暇や退屈な時間、覚醒度の低い時間には、トラウマ記憶が浮かび上がってしまう。

これを防ぐために、人は覚せい剤や鎮静剤に浸ったり、酒を飲んだり、仕事に没頭したりし、覚醒度を100あるいは0にして、トラウマ記憶が浮かばないようにする。

 

しかしこれらの対処策もいずれはパターン化され、「予測誤差の記憶へと沈殿していく」。そうなると、さらにエスカレートした行動をとらねばトラウマ記憶を避けられなくなる。

読書など 20210124

手段が変わっても変わらない、高く掲げた企業理念を大事にする

 

エンゲージメント強化への取り組みを妥協しない

 

 

管理職  ではなくてマネージャーになる

スポーツチームやタレントのマネージャーが本来のマネージャーの姿

それに加えて監督やコーチの役割も加わる

中間管理職板挟みと感じるか、会社と個人をつなぐ重要なコネクターと感じるかは大きな違い

 

デザインスプリント

 

 

計画的偶発性理論 connecting the dots

 

エンジニアよりエンジニアリングマネージャー

 

 

 

私が英語論文を作成する時に使用するサービス。

1. DeepL:5秒程考えて良い英文が思いつかなかったら

日→英で文章を作成(日→英→日で内容を適宜確認)

2. Ludwing:自分が書きたい文章に近い例文を探したい時に利用

3. Grammaly:Wordで執筆時に単語・文法ミス確認を常時利用

4. Editage:英文校正

 

 

 

中動態の世界

これまで読んだことないタイプの本で理解が中途半端かもしれないが、まとめる。

  • 現代の文法では「能動態」「受動態」の二つの考え方があり、能動態は「する」、受動態は「される」、の概念と考えられている
  • この視点で見る限り、能動的に行った物事に対しては、主語はその物事を実行しようという意思をもって実行した(もしくは、実行しないという意思が弱くて実行してしまった)のであり、結果に対して責任を持つ、と考えられる
  • しかし、過去には「意思をもって実行する」という概念がない世界観も存在した。そういった世界観において、能動態に対立するのは受動態ではなく「中動態」と呼ばれる
  • この世界感では、能動は「主語の動作が外部に作用するもの」、中動は「主語の動作が自身に作用するもの」と定義される
  • この「中動態のある世界」から、現代の「受動」「能動」を説明すると以下のようになる
      - まず外部からの刺激(他者や外部物体の能動)が存在
      - それを受けた我々の中で反応(変状)が起きる。変状は中動態であらわされる
      - 変状が我々の本質を十分に表現しているとき、それは受動である
      - 外部からの刺激に圧倒されてしまっており、我々の本質よりも外部の刺激を与えたものの本質の方を表現してしまっているとき、それは受動である
      - この2つは度合いの問題であり、ゼロかイチかの話ではない。つまり受動と能動という2つについても度合いがある
      - スピノザ哲学では能動の度合いを増やしていくのが望ましいとされるが、そのためには、外部からの刺激に圧倒されるばかりではなく、変状を起こすタイミングで少しでも自分の本質を表現できるようにしていくことが重要である。
    (これは、自分なりの解釈でいえば外部刺激にダイレクトに反応するのではなくて、それに対して一度自分なりに消化して、そのあとで行動を起こす、ということに思える)

 

全体として、能動/受動→加害者/被害者→善/悪 のような視点は何か違うのではないか、と思っていた自分にとってはとても興味深くかつ助けになる本だった。

ただ、本書は中動態の概念とそれを念頭に置くことが世界の理解の助けになる、ということまでで、ではそのあとこの概念を使ってどのように生きていくのがよいか、という点、答えには触れてくれないのが残念だった。
それはまさに「本が自分に刺激を与えた(能動)」あとで、「私の中で考える(中動)」べきことなのかもしれないが、、、

 

パーソナリティの起源

強迫性のパーソナリティを持つ人は責任感と義務感が強く、あまり変動のない時代にはとても高く評価される。しかし、現在のような変化の大きな時代には活躍しづらい、らしい。

 

強迫性のパーソナリティを持つと自覚する人間にはいきづらい世の中だけど、ではなぜこういうパーソナリティになったのか?

 

就職するとき、「大学まで行かせてもらったのだから社会に役立つ仕事につかねば」という義務感があった。この時点で既にこのパーソナリティになっていたのは間違いない。

 

さらに振り返ると、高校に進学した時点でも既に同じような考えをもっていたようにおも思える。

 

田舎のそれほど裕福とは言えない、高校卒業して地元で就職するのが妥当な家庭に生まれたのに、進学校に進み、仕送りもらって大学まで行かせてもらった。よって、その恩に報いるために社会に役立ってその成果を親に見せねばならない、と考えていたようだ。

 

ただ、ちょっとそれだけだと原因としては足りないように思える。

この本では、なぜかこのパーソナリティについては何が原因で発生するのかの記述がないので、今度何か他も当たってみよう。