中動態の世界

これまで読んだことないタイプの本で理解が中途半端かもしれないが、まとめる。

  • 現代の文法では「能動態」「受動態」の二つの考え方があり、能動態は「する」、受動態は「される」、の概念と考えられている
  • この視点で見る限り、能動的に行った物事に対しては、主語はその物事を実行しようという意思をもって実行した(もしくは、実行しないという意思が弱くて実行してしまった)のであり、結果に対して責任を持つ、と考えられる
  • しかし、過去には「意思をもって実行する」という概念がない世界観も存在した。そういった世界観において、能動態に対立するのは受動態ではなく「中動態」と呼ばれる
  • この世界感では、能動は「主語の動作が外部に作用するもの」、中動は「主語の動作が自身に作用するもの」と定義される
  • この「中動態のある世界」から、現代の「受動」「能動」を説明すると以下のようになる
      - まず外部からの刺激(他者や外部物体の能動)が存在
      - それを受けた我々の中で反応(変状)が起きる。変状は中動態であらわされる
      - 変状が我々の本質を十分に表現しているとき、それは受動である
      - 外部からの刺激に圧倒されてしまっており、我々の本質よりも外部の刺激を与えたものの本質の方を表現してしまっているとき、それは受動である
      - この2つは度合いの問題であり、ゼロかイチかの話ではない。つまり受動と能動という2つについても度合いがある
      - スピノザ哲学では能動の度合いを増やしていくのが望ましいとされるが、そのためには、外部からの刺激に圧倒されるばかりではなく、変状を起こすタイミングで少しでも自分の本質を表現できるようにしていくことが重要である。
    (これは、自分なりの解釈でいえば外部刺激にダイレクトに反応するのではなくて、それに対して一度自分なりに消化して、そのあとで行動を起こす、ということに思える)

 

全体として、能動/受動→加害者/被害者→善/悪 のような視点は何か違うのではないか、と思っていた自分にとってはとても興味深くかつ助けになる本だった。

ただ、本書は中動態の概念とそれを念頭に置くことが世界の理解の助けになる、ということまでで、ではそのあとこの概念を使ってどのように生きていくのがよいか、という点、答えには触れてくれないのが残念だった。
それはまさに「本が自分に刺激を与えた(能動)」あとで、「私の中で考える(中動)」べきことなのかもしれないが、、、